本作のあらすじ
「私が、彼を、見捨てたんです」——
関西のある街から京都へ、二十代の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
見栄っ張りな元ご主人の好みに合わせ、若くして自分名義で組んだ大きなローン。義母の言葉、子どものこと、そして自分から切り出した離婚。新しい彼や周りの支えがあってもなお、夜になるたびに「私が彼を見捨てた」という声が消えない。
梅雨入り前の北山の朝、たま先生はその罪悪感の渦のなかにいる人に、なにを差し出すのだろうか——
初めて画面の向こうで西村さんに会ったとき、その方は、まだほとんど何も話せていなかった。
Zoomの待機画面の青が、ふっと切り替わる。映ったのは、白いリビングのいちばん端だった。背景にはなにも置かれていない。家具のかどが見えるわけでもなく、ただ白い壁だけがあった。画面の中央に、若い女性がひとり座っていた。
「西村と申します」
声は細かった。けれどはっきり言いきった。長く独りで自分を律してこられた人の、押し出すような細さだった。
それから西村さんは、しばらくのあいだ、ご自分のひざのほうへ視線を落とされていた。眉のあたりが何度かかすかに動いて、唇が二度ほどひらいて、また閉じた。Zoomの小さな枠のなかでも、私には見えていた。胸のなかにある言葉を、口のかたちまで運ぶのに、その方が大きな力を要しているということが。
「ゆっくりで、大丈夫ですよ」
そう私が伝えると、西村さんはほうっと小さく息を吐いて、ようやく顔を上げてくださった。
——
そのオンラインのお話を、私は何度かお聞きした。
二度目、三度目と回を重ねるあいだに、西村さんの声には肩のちからが抜けたような場所ができていった。それでも肝心の話の核のところに来ると、決まって声がふっと途切れた。途切れるのではなく、ご本人がすっと声を引き上げて、奥に戻されているのだ。私はそれをむりに引き出そうとはしなかった。
四度目のお話のあと、西村さんはこちらに短いメッセージをくださった。
「先生。一度だけ、京都までうかがって、お会いしてもよろしいでしょうか」
「ぜんぶ、お話できる気がして」
その短い数行を、私はしばらくのあいだ画面のうえに置いて見ていた。Zoomの枠のなかで何度もいったん引き上げられてきた声が、京都までの距離を経ることで、ようやく外へ出られるかもしれない。そういう気配を、文面のうえからもらった気がした。
「ようこそ、京都へ」
そう、ひと言、お返しした。
——
六月の初めの、ある日の朝。
待ち合わせの場所として私が選んだのは、北山の通りからすこし外れたところにある、自家焙煎の小さな店だった。
朝の九時すぎだった。梅雨の入りが、京都ではまだ告げられていない。空は薄い青で、けれどそのなかに湿った気配がいち枚、まじりはじめている。「もう数日のうちに雨の季節がくる」ということを、京都に長く暮らしている者の体は、空を見るより先に肺のあたりで知る。
通り沿いの欅の若葉は、もう五月のあの透けるような薄さを残していなかった。葉のいちまいいちまいに、夏の重さの予感がほんのりと宿っている。けれど枝の先のほうだけは、まだ淡い緑をかすかに揺らしていた。
店は、通りから一本だけ奥に入った路地の角にあった。
外壁は焼き杉で、看板は出ていない。営業している日はドアの脇に、白い陶器のカップがひとつだけ置かれる。それが、店主のひそかな合図だった。
店内は、五席ほどのカウンターと、奥に小さなテーブル席が二つ。窓は東向きで、朝の光がカウンターの木目のうえに、長く伸びていた。豆を煎るときの、あの少し焦げた甘い香りが、店じゅうの空気にやわらかく混ざっていた。
「お久しぶりです」
カウンターの内側で、店主の若い女性が小さく頭を下げた。三十代のはじめくらいの方で、東京の焙煎所で修業ののち、二年前にこの店を開かれた。私はラジオのリスナーの方に教えていただいて、ときどき寄らせていただくようになった。
「奥のテーブル、お使いいただけますか」
「ええ、お願いします」
——
奥の窓辺の席に、先に座らせていただいた。
窓の外は抜けたところに小さな苔の坪庭があって、その向こうに、隣の家の白い土塀が見えている。土塀のあたまには、季節を少しだけ過ぎた額紫陽花がいち株、もう薄く色を変えはじめていた。
カップを膝のうえに伏せたまま、私はしばらく窓の外を見ていた。
朝の光のひんやりした白が、坪庭の苔のうえで、ひとつぶずつ粒を立てている。京都の六月の朝のいちばん最初の光は、いつも、こういう細かい粒のかたちをしている。それが昼に近づくにつれ、面のひろい光に変わっていく。今日もそういう変わり目の朝だった。
——
カウンターのほうから、ドアのベルが小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
店主の声がして、すこし間があった。店の入口で、ひとりの若い女性が店内の様子をゆっくり見渡していた。Zoomの画面の枠のなかで何度かお会いした方が、いまその枠の外にちゃんと立っていらした。
ベージュのリネンのワイドパンツ、白い半袖のブラウス、肩には小さな布のバッグ。髪は耳のうしろでひとつにまとめておられて、首筋のあたりが、朝の光のなかでとても若く見えた。
私と目が合うと、西村さんはふっと、息を吸い込むのを止めた。
それから一歩、ふみ出された。
「先生、おはようございます」
声は、Zoomで聞いてきたときよりも、ほんの少しだけ低かった。








