本作のあらすじ
「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——
京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。
手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。
沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——
私たちが純喫茶を出たのは、午後の六時を回ったころだった。
寺町のアーケードは、ほとんどの店がもうシャッターを下ろしていた。アーケードの天井は、日没のあとの空のいちばん深い青を、まだ少しだけ通していた。
「地下鉄の駅まで、ご一緒しますね」
「ありがとうございます」
——
北野さんは、歩きながらはほとんど何も言わなかった。
ときどき、鞄の持ち手をそっと指で握り直していた。それが、あの長い沈黙の続きの動作のように私には見えた。私は隣で何も言わずに、北野さんの歩く速さに自分の歩幅を合わせていた。
——
地下鉄の入り口の前で、北野さんは、私に向き直った。
「先生」
「はい」
「今日、ありがとうございました」
「いえ。お話、聞かせていただいて、こちらこそ、ありがとうございました」
「……」
「あの子のお弁当のお話を、私、誰にもしたことがなかったんです」
「ええ」
「ばかげた話やと、自分でも思っていたので。誰かに言うていうこと自体が、できませんでした」
「ばかげてなんか、いませんよ」
私は、首を、ゆっくり横に振った。
——
「北野さん」
「はい」
「ご自宅に帰られて、すぐに何かを変えなくて、いいんですよ」
「ええ」
「あの子が大学にいかれるまでは、まだ、しばらくありますね」
「来年の三月までです」
「そのあいだに、今日ご自分のなかで動いたものを、お母さまのお歩きになりたい速さで、ゆっくりと進めてくださったらいいんです」
「はい」
「いますぐ、お弁当をやめなくても」
「……」
「いますぐ、夜中の二時の台所をやめなくても」
「……」
「やめる日を見極めるのは、北野さんご自身ですから」
——
北野さんは、ハンカチを、もう一度、ぎゅっと握った。
「先生」
「はい」
「私、来年の春に、あの子が家を出ていく日を」
「ええ」
「ちゃんと見送れる母親でいたいです」
その声は、低く、けれどはっきりとした、はじめての声だった。
私は、ゆっくりと頷いた。
「北野さんは、見送れますよ」
「……」
「もう、見送るための準備を始めていらっしゃいますから」
——
北野さんは、深く頭を下げた。
「お気をつけて」
「はい。先生も、お気をつけて」
地下鉄の階段を下りていく、北野さんの背中を、私はしばらくのあいだ見送った。
その背中は、来たときよりも、ほんのすこしだけ、自分の重さを自分で持って歩いているように、私には見えた。
——
バスに乗って、四条のあたりで降りた。「をぐら」の提灯が、いつもの路地の奥でぼんやりと揺れていた。
暖簾をくぐると、客が二人、カウンターの手前に座っていた。私はいつもの奥の席に腰かけた。
「おお、たまちゃん。今日も、ご苦労さん」
「いつもの、お願いします」
ほうじ茶の湯呑みが、しばらくして私の前に置かれた。
——
「ザキ姉ちゃん」
「ん」
「お母さんって、難しいね」
「あんた、なんやの、急に」
「今日な、ようけ手をかけて育ててきはったお母さんのお話、聴いてきた」
「ふうん」
ザキ姉ちゃんはカウンターの内側で、布巾を絞りながら、こちらをちらっと見た。
「子離れ、いう話か」
「うん。お弁当のお話」
「ああ」
ザキ姉ちゃんは、湯葉の煮浸しの小鉢を、私の前に置いた。それから、菜の花のおひたしも、もうひとつ並べてくれた。
「うちの母も、そうやったわ」
——
「ザキ姉ちゃんのお母さんが?」
「うん。私が高校卒業して、家、出ていく言うたとき。母な、私のお弁当箱、そのあと一年くらい毎晩食器棚から出してきて、ピカピカに洗ってまた棚にしまうんやって。父があとで教えてくれた」
「……」
ザキ姉ちゃんは、グラスを並べ直しながら、小さく笑った。
「あの世代のお母さんはな、たまちゃん。手のひら以外で愛情、表す方法、教わってないんやで」
——
私は、ほうじ茶を、ゆっくりと口に含んだ。
「ザキ姉ちゃん」
「ん」
「今日、お母さんがな、自分の手のひらを、自分でじっと見てはった」
「ほう」
「『この手を、何に使うんでしょうか』って、自分の手のひらに、そう聞いてはった」
「……」
「私な、その問いに、まだ、答えはあげてない」
「ふうん」
ザキ姉ちゃんは、それ以上、何も言わなかった。
代わりに、湯呑みのおかわりを、もうひと注ぎしてくれた。
——
「あんたの仕事はな、たまちゃん」
「うん」
「お母さんに、お母さん以外の名前があるていうことを、思い出してもらう仕事や」
「……」
「子離れの話やない。あの世代のお母さんに、もう一回、自分の名前を、自分の口で呼んでもらう仕事や。違うか」
私はしばらく、湯呑みの縁に指をかけたまま動かなかった。
ザキ姉ちゃんのこういう言葉が長い一日のいちばん最後にふっと、私の体のなかに落ちてくる時間。私はその時間が好きだった。
「そうかもしれん」
——
カウンターの手前の客が、お会計を済ませて出ていった。提灯のあかりが、店の障子を内側から橙色に染めていた。
「ザキ姉ちゃん」
「ん」
「あの方な、来年の春、ちゃんと息子さんを見送れるかな」
「見送るやろ」
ザキ姉ちゃんは、すっぱり言った。
「『見送れるかな』って、たまちゃんに言うてはったんやろ」
「うん」
「言えた人は、見送れるんや。見送れん人は、そもそもそんな言葉、出てこんもんや」
——
私はその言葉を、しばらくのあいだ自分のなかに置いていた。
外では、京都の五月の終わりの夜が、路地の奥でしずかに更けはじめていた。私は湯葉の煮浸しをひと口、口に運んだ。出汁の温かさが、舌のうえでゆっくりとほどけていった。
来年の春、北野さんが九州行きの新幹線のホームに立つ日。北野さんはたぶん息子さんに大きな声をかけずに、自分の手のひらをポケットにそっと収めて見送るのだろう。
——見えるところまで、北野さんはご自分で来られていた。
ザキ姉ちゃんは、また別のグラスを布巾で拭きはじめていた。








