本作のあらすじ
「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——
京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。
手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。
沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——
しばらくのあいだ、私たちはどちらも何も言わなかった。
北野さんはハンカチを出して、ひとつだけ目元を押さえた。涙はなかった。それでも、長く目のなかに溜めてきた何かをハンカチの繊維にいったん預けておきたい——そういう押さえ方だった。
——
「ちょっと、外の空気を、吸ってきても、いいですか」
「ええ。出ましょうか」
純喫茶の硝子戸を押すと、寺町の路地のひんやりとした夕方の空気が、こちらに流れこんできた。商店街のほうからは、閉店の音楽がもう一度薄く流れてきていた。
北野さんは路地のはじで、ゆっくりと深呼吸をしていた。
——
「あ、たまさんやろ」
すぐ脇から、声がかかった。
振り向くと、買い物袋をふたつ提げた白髪の女性が、こちらを覗き込んでいた。七十は超えていらっしゃるだろうか。にこにこと、目尻のしわを深くして笑っている。
「私な、第一金曜日のラジオ、毎月聴いてるんよ」
「ありがとうございます」
「あんたの声な、ええ声やね。ほな、邪魔してすまんね」
その女性は、もう一度笑みを向けてアーケードのほうへ歩いていった。買い物袋のなかで、ねぎの先っぽが揺れていた。
——
北野さんが、こちらを見た。
「先生、すごいですね」
「いえ。ラジオを、もう長くやらせていただいているだけなんです」
私たちはもう一度、純喫茶の硝子戸を押した。なかへ戻ると、店の空気が外の冷たさを少しだけ薄めてくれた。
——
席に座り直して、私はあらためて、コーヒーカップに手をかけた。
「北野さん」
「はい」
「いまのお話とは、まったく関係のない話を、ひとつだけ、してもいいでしょうか」
北野さんが、ふっと、顔を上げた。
「……はい」
「私の知り合いに、京都の北のほうで、長く果樹園をやっている方がいらっしゃるんです」
「ええ」
「桃の木を、何十本と育てていらっしゃる方で。私もときどき、その果樹園にお邪魔して、お話を聞かせてもらうんです」
——
私はコーヒーをひとくち含んだ。
「桃の木っていうのはね、ちいさな苗のころは、添え木をしてあげるんだそうです」
「添え木、ですか」
「はい。まだ細い幹が風で曲がってしまわないように、横にしっかりした棒を立ててあげて紐でゆるく括っておく。雪の重みで折れないように、寒さで皮が裂けないように、ちいさいうちは、いろんな手を入れてあげるんですって」
「ええ」
「その方の言葉でね、こんなことを聞いたことがあるんです」
私は、自分の指先を、テーブルのうえで軽く揃えた。
「『桃の木はな、添え木をしてやらんとあかんけれど、添え木がええ仕事をしたかどうかは、添え木がついてるあいだは、わからん。添え木を外したあとに、その木が、自分の根っこと自分の幹だけで立てたとき、はじめて、添え木がええ仕事をしたんやな、ってわかるんやで』」
——
北野さんは、コーヒーカップに目を落としたまま、私の話を聞いていた。
私はそのまま、続けた。
「で、その方が、こうも言うんです」
「ええ」
「『いちばん難しいのは、添え木を外す日を決めることや。早すぎたら、まだ立てへん。けど、ずっと括ったままでおったら、木は、添え木の形のまんま育ってしまうんや。自分の幹で風を受けるていう経験を、いつまでも持てへんようになる』」
「……」
「『せやから、農家の仕事ていうのはな。育てることと同じくらい、外す日を見極めることなんやで』」
——
私は、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「これは、ぜんぜん別の方の、別の世界のお話なんですよ」
「ええ」
「私もこの方のお話を聞いたとき、ああ、お仕事ってこういうものなんだなって、ただそう思っただけだったんです」
北野さんは、じっと、コーヒーカップを見つめていた。
——
しばらくして、北野さんは、ハンカチを膝のうえで握り直した。
「先生」
「はい」
「私、あの子の添え木を、外せないんでしょうか」
「外す、外さないのお話を、私は北野さんにしているのではないんですよ」
「……」
「桃の木の話は、お弁当の話とも、息子さんのお話とも、関係がないんです」
「ええ」
「私はただ、その果樹園の方が言われた『外す日を見極めるのが、いちばん難しい』という言葉を、今日、北野さんとお会いして、ふっと思い出しただけです」
北野さんは、しばらく、自分のなかでその言葉を反芻していた。
——
外では、寺町のアーケードの音楽が、もう完全に止んでいた。
代わりに、五月の終わりの夕暮れの音が壁の向こうから薄く漂ってきていた。自転車のベル、遠くの寺の鐘、誰かが暖簾を下ろす音——閉まっていく街の音だった。
「先生」
北野さんが、ぽつりと言った。
「桃の木って、添え木を外されるとき、痛いんでしょうか」
——
私は、その問いを、自分のなかでもう一度なぞった。
「痛い、というよりはね」
「ええ」
「外されたときに、はじめて、自分が立てるかどうかが、わかる。それまでは、立てるか立てないかは、ご本人にもわからないんです」
「……」
「だから、外すほうも、外されるほうも、その日まではどちらも、息を詰めているんでしょうね」
北野さんは、ゆっくりと頷いた。
「先生」
「はい」
「私、ずっと息を詰めていたんですね」
「……」
「あの子のためじゃなくて。自分の息を、自分で詰めていたんですね」
——
私は、何も言わなかった。
代わりに、コーヒーカップの取っ手に指をかけたまま、自分の呼吸を、ゆっくり長く吐いた。北野さんが、いま自分のなかで何かをひとつ手放そうとしている。その手放しの隣に、私はただ、一緒に座っていた。
格子窓の向こうで、寺町の夕暮れが、もうひとつ深い色に変わりはじめていた。








