本作のあらすじ
「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——
京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。
手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。
沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——
「変、ですよね」
北野さんは、もう一度、その言葉を口にした。
私はやはり、すぐには答えなかった。
代わりに、コーヒーカップを置いて、テーブルの上で軽く指を組んだ。閉じ込められた答えを急いで開けようとせずに、ただ、そこに置いておくための姿勢だった。
——
しばらく、二人とも何も言わなかった。
格子窓の向こうで、寺町の閉店音楽がゆっくりと一周して、また、はじめのほうへ戻っていった。古い純喫茶の壁の時計が、こつ、こつ、と細い音を刻んでいた。マスターは奥のシンクで、グラスを布巾で拭いている。その音さえも、私たちの沈黙にはなじまずに、店の空気のなかへと溶けていった。
北野さんは、自分のカップの縁を、指先でゆっくりとなぞっていた。何度もなぞるうちに、その動きはだんだん遅くなって、やがて止まった。
——
「先生」
ふいに、北野さんが口を開いた。
「あの子、来年の春に、家を出るんです」
「ええ」
「大学が、九州なんです。本人が選んだ大学で。私も、本人が行きたいって決めたなら、応援しようと思っていました」
「そうですか」
「合格通知が来たのは、二月でした。あの子、すごく嬉しそうにしていて。私も、おめでとうって、ちゃんと言いました」
「ええ」
「そのときは、ちゃんと、おめでとうって言えたんです」
北野さんは、そのまま、視線をテーブルのうえに落とした。
「でも、二月の終わりくらいから、私、夜中に目が覚めるようになりました」
——
「目が覚めて、どうされるんですか」
「最初は、何もしていません。ただ、天井を見ていました」
「ええ」
「でも、二週間くらい経って、夜中の二時くらいに、台所に立っているようになりました」
「お料理を、なさるんですか」
「お弁当の、おかずをですね」
私は、ゆっくりと頷いた。
「あの子の、卒業まであと一か月ちょっと。学校に持っていく、お弁当の」
——
北野さんは、両手をひざのうえで重ね直した。
「ふだんは前の晩に、お弁当の下ごしらえだけして、朝に詰めるんです。何年もそうしてきました」
「ええ」
「それが、二月の終わりごろから、夜中の二時に起きて、ぜんぶ作ってしまうようになりました」
「夜中の二時に、ですか」
「はい」
「そして、朝までもう一度、お休みになるんですか」
「いえ、それが」
北野さんは、はじめて、ふっと自分のなかで声を詰まらせた。詰まらせたというよりは、自分の喉のなかでその先の言葉をひと拍ぶんためらった、という詰まり方だった。
「夜中に、ぜんぶ作って。そのあと、リビングで、いつまでも座っているんです」
「テレビを、つけて」
「いえ、暗いままで」
「……」
「ただ、お弁当のおかずを作りおきしたタッパーを、テーブルのうえに並べて。それを、見ているんです」
——
私は、自分のコーヒーをひとくち含んだ。
すっかり冷めていた。冷めたコーヒーの、わずかに苦みの増した味だった。
「タッパーを、見てらして」
「はい」
「その時間に、お考えになることはありますか」
北野さんは、しばらく答えなかった。
代わりに、自分の両手をテーブルのうえに、ゆっくりと出した。手のひらを上にして、左手と右手を並べて置いた。十年以上、誰かのために働いてきた手だった。指の節のところに、長く水仕事をしてきた人の薄い赤みがあった。
その手のひらを、北野さんはじっと見つめていた。
「あの子が家を出たら」
「ええ」
「私、この手を、何に使うんでしょうか」
——
その問いを、北野さんは私に向けて出したのではなかった。
自分の手のひらに向けて、はじめて声に出してみた——そういう言い方だった。たぶんこの問いは、夜中の二時の暗いリビングで、何度も心のなかでだけ繰り返されてきたものだったのだろう。今日、この純喫茶の格子窓の下で、はじめて空気のなかに置かれたのだ。
私は、何も言わなかった。
代わりに、自分のカップから、そっと手を離した。離したことそのものが、こちらの返事になればいいと思った。
北野さんは、自分の手のひらを見つめたまま、しばらく動かなかった。
——
「先生」
長い、沈黙のあとで、北野さんが顔を上げた。
「私、わかってるんです」
「ええ」
「あの子が、自分でご飯を食べないんじゃなくて」
「……」
「私が、あの子に食べさせていたいんだって」
——
その一文は、低く、けれどはっきりとした声だった。
声は荒げていなかった。涙も、まだ、滲んではいなかった。けれど、長く自分の喉の奥に押し込めてきたものがその短い言葉のかたちで、ようやく空気のなかに出てきた——そういう温度のある声だった。
私は、北野さんの目を見た。
「……はい」
それだけ、私は返した。
「はい」のあとに、何かを足さなかった。
足してしまえば、いま北野さんがご自分の口から押し出したその言葉の重さを、こちらの言葉が削いでしまう気がしたからだった。
——
外では、寺町の商店街のアーケードの音楽が、もう一周して止まった。
店の壁の時計が、こつ、と次のひと音を刻んだ。
北野さんは両手のうえで、自分の手のひらをもう一度そっと閉じた。








