最終更新日:

息子は私のお弁当しか食べません ②

本作のあらすじ

「息子のお弁当を、私が作らないとご飯を食べないんです」——

京都・寺町通りの古い純喫茶に、ひとりの母親がやってくる。高校生の息子は、母が用意しなければご飯に手をつけない。

手をかけることを愛だと信じてきた母親の声は、いつしか自分でも止められない場所まで来ていた。

沈黙のなかで、母はようやく自分の輪郭に触れていく——

→ 第1話から読む

寺町通りの古い純喫茶は、商店街のアーケードを少し外れた、細い路地の入り口にある。

昭和のころから店構えはほとんど変わっていないという。木枠の硝子戸を押すと、内側の空気のほうが少しだけ重く、こちらをそっと迎えてくれる。煙草を吸う客はもういない。それでも、長く吸われてきたものの匂いだけは、壁紙の奥に静かに残っている。

私が約束の十五分ほど前に着くと、北野さんはすでに、いちばん奥の席に座っていた。

——

会釈を交わした。

「お早いんですね」

「すみません。落ち着かなくて」

「いえ、こちらこそ、お待たせしてしまって」

向かい合って座った。テーブルの天板には、長い年月で磨かれた飴色の艶があった。窓は格子で仕切られていて、夕方の陽がそのあいだから細かく差し込んでいる。

北野さんは、紺の半袖のブラウスに、グレーのスカートだった。バッグは膝のうえで両手で抱えるように持っている。化粧は薄く、髪はうしろでひとつにきっちりまとめてある。「身ぎれいにしている」というよりは、「ほどけることをご自分に許していない」——そんな佇まいだった。

私はマスターに、コーヒーをふたつ、ブレンドで頼んだ。

カップが運ばれてくるあいだ、二人とも何も言わなかった。

——

コーヒーがテーブルに置かれた。

北野さんは、砂糖もミルクも入れずに、ひと口だけ含んだ。それから、カップを置いて、両手をまたバッグの上に戻した。

「先生」

「はい」

「昨日は、急にすみませんでした」

「いいえ。お会いできて、よかったですよ」

「……」

「ゆっくり、お話、聞かせてくださいね」

北野さんは、小さく頷いた。けれど、すぐには口を開かなかった。

私は、自分のカップに目を落とした。ブラックのコーヒーの表面に、店の天井のシャンデリアが、小さな丸い光になって映っていた。

——

しばらくの沈黙のあと、北野さんが口を開いた。

「うちは、息子と二人なんです」

「ええ」

「下の子はもう独立して。上が、いま高校三年生です」

「お一人で、育ててこられたんですか」

「主人とは、上の子が中学生の頃に別れました。籍はそのまま、しばらく続けていたんですけれど。離れて暮らすことに決めて、もう五年ほどになります」

「そうですか」

北野さんは「主人」という言葉を、どこか他人事のような言い方で口にした。長く同じ言葉を使ってきて、けれどその言葉のなかみは、いつのまにか自分の手のひらから抜けていた——そういう響きだった。

——

「先生」

「はい」

「昨日のメッセージ、お読みになっていただいたと思うんですけれど」

「はい」

「あれは、ほんとうのことなんです」

私は何も言わずに、頷いた。

「あの子、私が作らないと、本当に食べないんです」

「ええ」

「お腹が減ったら、コンビニに行くとか、自分でカップ麺を作るとか、そういうことができないわけじゃないと思うんです。だって、もう十八ですから」

「そうですね」

「でも、あの子は、それをしないんです」

北野さんはそこまで言って、コーヒーカップに、もう一度指をかけた。けれど持ち上げずに、そのまま指の先だけを、カップの縁にゆっくり這わせていた。

——

「最近、こんなことがあったんです」

「ええ」

「私、二日続けて夜勤がありまして。介護のお仕事をしていて、ときどき、夜のシフトが入るんです」

「ええ」

「そういう日は、お夕飯を朝のうちに作って、冷蔵庫に入れておきます。レンジで温められるように、お皿もラップしておいて。お弁当箱も、息子が翌朝学校に持っていけるように、前の晩から用意しておきます」

「丁寧にされているんですね」

「はい」

北野さんは、そこで小さく息を吐いた。

「でも、夜勤明けに帰ってくると、冷蔵庫のお皿は、ラップがかかったまま、そのまま残っているんです」

「……」

「あの子、お腹が減ってないわけじゃないんです。台所のテーブルに、菓子パンの袋とか、コンビニのおにぎりの袋とかが、きちんと畳んで置いてあるんです」

「では、別のものを召し上がっているんですね」

「はい」

「それが、お母さまの作られたものだと、召し上がらないんですね」

「いえ、ちがうんです、先生」

——

北野さんが、はじめてはっきりと、首を振った。

「『私が作ったものを食べない』のではなくて、『私が、その場で出したものでないと、食べない』んです」

「『その場で』、ですか」

「はい。私が温めて、私がお皿に盛って、私が『どうぞ』って言って、お箸を渡して。そこまで揃わないと、あの子は、手をつけないんです」

私は、すぐには言葉を返さなかった。

格子の窓から差し込む光が、北野さんの手の甲のうえに、細い縞模様を落としていた。指の先がほんのすこしだけ、カップの縁から離れた。

——

「先生」

北野さんが、こちらをまっすぐに見た。

「変、ですよね」

その問いに、私はすぐに答えなかった。

「変」と言ってもらいたいわけでも、「変じゃない」と言ってもらいたいわけでもないのだろうと、私は思った。北野さんが私の前に置いてくださったのは、そのどちらの答えでもない、もっと別の場所にある言葉だった。

私はコーヒーカップを、両手でそっと持ち上げた。湯気はすでに、ほとんど立っていなかった。

外では、寺町の商店街のアーケードに、閉店時間を知らせる音楽が、薄く流れはじめていた。

その音楽は、北野さんと私のあいだに、ひと枚の幕のように静かに降りてきた。

本作「息子は私のお弁当しか食べません」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

ほかのお悩み小説も読む


PAGE TOP