本作のあらすじ
「私、彼とレスなんです」——
五十代の女性が、京都の西陣まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
付き合って八ヶ月の、十二歳下の彼。最初の三ヶ月はあったのに、ここのところはずっと、手をつなぐところで止まっている。それでも彼は毎週、会いに来てくれる。私の魅力が、もうなくなったのでしょうか——その問いを抱えて、彼女は町家の坪庭が見える奥の席に腰を下ろす。
夕日が坪庭の苔を染めるころ、たま先生はその問いに、どんな笑顔を返すのだろうか——
「白石さん」
私は少しだけ、姿勢を整え直した。
「はい」
「私、ひとつだけ、勝手な感想を申し上げてもいいですか」
「もちろんです」
「いまの彼氏さん、白石さんのことを、とても大切に思っていらっしゃいますよ」
——
白石さんが、ふっと顔を上げた。
「先生、それはどうして」
「魅力がなくなった人と、毎週末、夜通し一緒に過ごしますか」
そう言って、私はちょっとだけ笑った。
白石さんも、つられたように、ふっと笑った。けれどその笑いは、まだ自分の中まできちんと届ききっていない笑い方だった。
「魅力がなければ、毎週デートしませんよ」
私はもう一度、ゆっくりと、同じことを繰り返した。
「ええ……」
「白石さん。今日のお話、私はずっと、彼氏さんの側のお気持ちも想像しながら聞いていました」
「彼の側」
「ええ」
——
私は自分のお茶を、ゆっくり一口含んだ。
「彼氏さんは、今は性欲がなくてプレッシャーを感じる、とおっしゃったんですよね」
「はい」
「彼氏さんも、その『プレッシャー』という言葉を、白石さんと同じようにご自分のお家で考えていらっしゃると思うんです」
「彼が、家で?」
「ええ。お一人になった夜に」
——
白石さんが、まばたきを一度した。
その視線は、自分の手元のカップから、少しだけ私のほうへと持ち上がった。
「年下の男性が、年上の女性をとても素敵だと思って、お付き合いを始められた」
「はい」
「最初の三ヶ月、ご自分がいちばんよくしたいと思って頑張ってくださっていた、ということもあったかもしれません」
「……」
「そのうちにお仕事のお疲れだったり、お体のサイクルだったり、いろんなことが重なって頻度が落ちてしまった」
「ええ」
「そのとき彼氏さんのほうも、たぶん『これじゃ白石さんに申し訳ない』とご自分のなかで言いはじめていらっしゃるんですよ」
——
白石さんが、そっと首を傾けた。
「彼が……、私に、申し訳ないと?」
「ええ。『プレッシャーを感じる』とおっしゃったのは、白石さんからの何かではないんです。彼氏さんがご自分で『応えられないのが申し訳ない』と思って、ご自分にプレッシャーをかけていらっしゃるのかもしれません」
——
白石さんは、しばらく、何も言わなかった。
その目は、自分の手元のカップの取っ手のあたりに、じっと留まっていた。何かを丁寧にひとつずつ、自分のなかで並べ替えていらっしゃる、そういう静かさだった。
「先生」
「はい」
「彼が、自分にプレッシャーを?」
「ええ」
「私にじゃなくて」
「白石さんからのプレッシャーは、もしかしたら、ほとんどなかったかもしれませんね」
「……」
「彼氏さんがご自分でご自分にかけてしまっている『申し訳なさ』のほうが、ずっと大きいかもしれません」
——
白石さんは、しばらくして、ゆっくり頷いた。
その頷きは、首の骨のあたりから順番にひとつひとつ位置を確かめていくような頷き方だった。
「私、それ、考えていませんでした」
「ええ」
「彼の側にも彼の側のしんどさがあるかもしれない、というのは頭ではわかっていたつもりだったんです。だけど」
「ええ」
「私、ずっと『私が彼にプレッシャーをかけている』って自分を責めてもいたし、その裏側で『彼が私の魅力を見てくれていない』って彼を責めてもいたんですね」
「……」
「自分のことばっかりで、彼が彼自身に何を感じているか、ちゃんと想像していなかったかも」
——
私は何も挟まずに、ただ頷いた。白石さんが、自分で見つけたほうがずっと、その言葉は強い。
夕方の光は、いつのまにか坪庭から降りていた。坪庭はいま、ぜんたいが静かな影のなかに沈んでいる。その影の柔らかさが、いまの白石さんの呼吸にちょうどよく合っていた。
「先生」
「はい」
「彼が毎週来てくれている、というそれだけで、本当はもう十分なのかもしれませんね」
——
そう言いながら、白石さんは自分のカップを、両手で軽く包んだ。
「触れ合いがないと、私はずっと『何かが足りない』って思ってきたんですけれど」
「ええ」
「彼が私のところに来てくれる、その時間そのものは、ぜんぜん足りていないわけじゃないんですよね」
「ええ」
「むしろ私、その時間のなかで彼の何を見ていたんだろうって、いまちょっと思いました」
——
私は微笑んだ。
「白石さん。『何が足りない』のほうから、『何があるか』のほうに、視線が動いていらっしゃいますね」
「動いていますか」
「ええ。とても、自然に、ご自分で動かしていらっしゃいます」
白石さんは、ふっと、肩から力を抜いた。
「私、自分のことをわりと、頭の柔らかい人間のつもりだったんです」
「ええ」
「でも、彼との関係のなかでは、ぜんぜん柔らかくなかったかもしれません」
「ええ」
「いま、ようやくちょっとほどけはじめた感じです」
——
坪庭の灯籠に、店の方が小さな明かりをひとつ、そっと点けてくださった。苔のうえに、橙色の小さな光がふわりと落ちて、青もみじの葉裏を下から薄く照らしはじめた。
「いいお灯りですね」
白石さんが言った。
「ええ。この時間にここに来ると、いつもこの灯りが点くタイミングがちょうど合うんです」
「ご贔屓のお店なんですか」
「年に二、三回くらい、長くお話をする方とご一緒します」
「私、その二、三回のうちのお一人にしていただいて嬉しいです」
そう言って、白石さんはまた笑った。今度のは、目の中までちゃんと届いていた。








