本作のあらすじ
「夏休みに、家を出ます」——
三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。
子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——
「先生」
しばらくして、青木さんが顔を上げた。
「私、いま弁護士さんに相談しています」
「ええ」
「離婚と別居に向けて、水面下で準備を進めています」
「そうですか」
「もともとは、子どもが高校生になるくらいまで、家のなかでは仮面夫婦のまま過ごすつもりだったんです。義母も義祖母もいますし、上の子はまだ三年生で、いきなり家のかたちを変えるのは子どもたちに負担が大きいだろうと思って」
「ええ」
「でも、報告書を読んでから、考えが変わりました」
——
青木さんはコーヒーカップに、ゆっくり指をかけた。
「仮面のまま、子どもの前で『仲のいい両親』を続けるのは、私も夫も、それから、それを毎日見て育つ子どもたちも、誰にとってもよくないって思ったんです」
「……」
「夫の方は、それでもいいって言うんです。子どもの前ではこれまで通りに振る舞う。籍だけ抜く、と。でも、それは——」
青木さんが、言葉を途中で切った。
——
外を、五月の風がひと吹きしていった。
私は、窓のそとの川面をひとつ見た。デルタの三角州の上で、夕方のひと足前の光が芝のうえをゆっくり横切っていた。
——
「ただ」
そう、青木さんは続けた。
「ただ、子どもたちは夫のことが大好きなんです」
その「大好き」を口にしたとき、青木さんの目の奥で、何かがふっと止まった。
これまで自分のことを話していたときには、出てこなかった止まり方だった。子どものことになると、青木さんは自分のことよりもずっと早く、ずっと深く揺れる。
「先生」
「はい」
「上の子は、夫と一緒にカードゲームをするのが好きなんです。週末になると二人で、リビングのテーブルでもう何時間でも、向かい合って」
「ええ」
「下の子はいつも夫の膝のうえで、絵本を読んでもらいたがります。膝の高さがちょうどいいからって、夫の膝、毎晩取り合いになるくらいで」
私は首を、ゆっくりと縦に振った。
「先生。あの子たちはいま、何にも知りません」
「……」
「父親が、別の場所で何をしてきたかも。私が、報告書をリビングで読んだことも。私が、弁護士さんに会いに行っていることも」
——
青木さんはハンカチを、両手で軽く握り直した。
「先生。親として、私のいまの選択は本当に、子どもたちのためになっているんでしょうか」
——その問いは、青木さんがいまいちばん、誰かに尋ねたかった問いだった。
私は、すぐには答えなかった。
代わりに、自分のコーヒーカップをゆっくりと持ち上げて、ひとくち含んだ。
——「子どものため」という言葉ほど、危うい言葉はない。
私自身、長くカウンセリングをするなかで何度も、その言葉の前で立ち止まらせていただいてきた。それは、いちばん深いところからの愛情から出る言葉でありながら、同時に自分の決断の重さをいちど別の場所に預けてしまえる、便利な言葉でもある。
私は、コーヒーカップを置いた。
「青木さん」
「はい」
「私からひとつ、お返しの形でお聞きしてもいいですか」
——
「お子さまたちはいま、何にも知らずにお父さまと笑っていらっしゃる。それは、本当によくわかります」
「はい」
「では、青木さんがいま、まったく動かずに、これまで通りの仮面のままご自宅で過ごされたとしますね。お子さまたちが、たとえば五年後、十年後に、もう少し大きくなられてご自分の目で『家庭』というものを見はじめたとき」
「ええ」
「そのとき、お子さまたちが目にする『お父さまとお母さま』は、お子さまたちがこれからの自分の大事な人とのつき合い方を考えるときの、見本になりますね」
青木さんが、ふっと、息を止めた。
「『あの家のかたちを真似していい』と思える両親であり続けられるか——青木さんはご自分の中で、どう感じていらっしゃいますか」
——
青木さんはしばらく、答えなかった。
代わりに、自分の手のなかのハンカチをぐっと握り直した。
それから、ぽつりとこう言った。
「先生」
「はい」
「私、いまの家で見えているものを、子どもたちに『これを大事にしてね』とは、もう言えません」
——
私は、ゆっくりと頷いた。
「その『言えない』が、青木さんの本当のお答えなのだと私は思います」
「……」
「子どもたちはいま、まだお父さまと一緒のテーブルが好きなんです。それは、それでいい。お父さまとお母さまは、お子さまにとってずっと特別ですから」
「ええ」
「でも、それを守るために、母であるご自分が大事なご自身の判断を後回しにし続けてしまうと、お子さまたちはいつか、その後ろ姿を見て大事な判断を後回しにする習慣を、ご自分のものとして受け取ってしまうかもしれません」
「……」
「青木さんがいま、なさろうとしている準備は、『子どものために何かを犠牲にする母』ではなくて、『大事な判断をちゃんと前にする母』の姿をお子さまたちに残されようとしていることだと、私は感じます」
——
青木さんは、しばらく、こちらを見ていた。
それから、自分の膝のうえでハンカチをもう一度、ゆっくりとたたみ直した。
「先生」
「はい」
「私、いまの選択を間違いだと思いたくなかったんです」
「ええ」
「子どもたちの笑顔を見るとぐらぐらしてしまって。それで何度も、自分のなかで『これでいいのか』『これでいいのか』って、ずっと確かめていました」
「ええ」
「でも、いま先生にお話ししていて思いました。私、たぶん間違ってはいないんです。ただ、これはぐらぐらしていい場所なんですね」
私は首を、ゆっくり縦に振った。
「ぐらぐらしながら、ちゃんと前に進めばいいんです」
青木さんがその言葉のまえで、ふっと息を吐いた。
外の川面では、夕方の光がいま、いちばん柔らかい色になりつつあった。








