本作のあらすじ
「夏休みに、家を出ます」——
三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。
子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——
「離婚届を渡されたのは、年明けでした」
青木さんはそう言って、コーヒーカップから手を離した。
——
その日のことを、青木さんはよく憶えていた。
正月の三が日が明けた、四日の夜だった。義祖母は早めに自分の部屋に下がり、義母も、二階で年賀状の整理をしていた。子どもたちは二階の子ども部屋で、もらったお年玉のお札を何度も並べ替えていた。
ご主人はダイニングテーブルの自分の席に、座っていた。
青木さんが台所で湯呑みを洗っていると、ご主人がこう言った。
「これ」
振り返ると、テーブルのうえに白い封筒が置かれていた。
——
「中身は、開けなくてもわかったんです」
青木さんは、そう言った。
「年末にも何度か、その話は出ていましたから。でも、本当に出てくる、出てくる、と頭で言いながら、心のほうはまだ信じていなかったんだと思います」
私は首を、ゆっくりと縦に振った。
「封筒のなかには、ちゃんとした離婚届が入っていました。夫の欄だけ、もう書いてありました。判も押してありました」
「……」
「その紙を、私はしばらく、テーブルのうえでただ見ていました」
——
青木さんがそれから、ぽつりと付け加えた言葉は、私の中で長く尾を引いた。
「夫が、こう言ったんです」
「ええ」
「『子どもとは一緒にいたいから、籍だけ抜いて、これからは子育てのパートナーとしてやっていきたい』って」
「……」
「『家にも住み続けるつもりだ。義母にももう、了解を取った』って」
——
私は、すぐには応えなかった。
ダイニングテーブルのうえに置かれた、白い封筒。判の押された夫の欄。それを「離婚届」と理解しながらも、その紙がこれから自分の暮らしのどこへ、どんな形で食い込んでくるのかは、まだ頭が追いついていない——そういう数分間が、青木さんの中には確かにあったのだろう。
「子育てのパートナー」という言葉の冷たさを、私はもうひと呼吸かけて自分のなかで噛んだ。
——
「私、その夜お風呂に入りながら考えました」
青木さんが続けた。
「『子育てのパートナーとして籍だけ抜いて、家には住み続ける』。それが本当に、自由になりたい人の言うことなのかなって」
「ええ」
「ただ自由になりたい人ならもっと、別の言い方をするはずなんです。出ていく、とか、慰謝料はちゃんと払う、とか。でも、夫の言い方はそうじゃなかった」
「……」
「『家には住み続ける』『義母にも了解を取った』。その『了解を取った』の言い方が、私には何かひっかかりました」
私は、青木さんの目を見た。
「その『ひっかかり』が、青木さんを動かしたんですね」
「はい」
「動いた、というのは」
「探偵さんを入れたんです」
——
青木さんはそれから、両手を自分の膝のうえに置いた。
その指先がほんのすこしだけ震えていた。半年前のことを話しているのに、いまそれを話している指が震える——身体は頭よりもずっと、過去を新しく憶えていることがある。
「探偵さんからの報告書が届いたのは、二月の終わりでした」
「ええ」
「義母も義祖母も、子どもたちも家にいない時間を狙って、私はリビングのテーブルでその封筒を開けました」
私は何も言わずに、その場面の中に自分の身を置いた。
——
ファスナー式の封筒が、ぴり、と音を立てて開く。
なかから、A4サイズの書類が十数枚出てくる。
最初の数行を読んだ瞬間に、青木さんの体はいっぺんに止まった。
呼吸も、止まった。
紙をめくる指は、めくりたくないと思った。けれど、めくらないと終わらないことも、わかっていた。
——「飲み会」と称された日に、繁華街のホテル街で確認されたこと。 ——某店舗のデリヘルを、複数回、利用していたこと。 ——マッチングアプリのアカウントを複数所持していたこと。 ——アプリ経由で、複数の女性と、実際に会っていたこと。
——
「私、その紙の前でしばらく動けませんでした」
青木さんはいまの口調で、そう言った。けれどその「動けませんでした」のなかには、半年前のリビングのテーブルの前で、本当に体ごと止まっていた女性の温度がまだこもっていた。
「呼吸ができないというよりは、呼吸の仕方を忘れた感じでした」
「……」
「手が紙の縁を持ったまま、震えはじめました。頭は、どこかすうっと遠くなっていました」
私は、自分のコーヒーカップに目を落とした。
その間も、青木さんの言葉は続いた。
「『見たくなかった』のではないんです、先生」
「ええ」
「『見えてしまった』というのが、いちばん近いです」
——
私は青木さんに、ハンカチを差し出した。
けれどその瞬間、青木さんは首を、ゆっくり横に振った。
「ありがとうございます。でもいま、私、不思議と泣けないんです」
「ええ」
「あの紙を読んだとき、涙の出どころがすこしだけずれた気がしました。あれから何回、その紙を読み返しても、涙は出てこなくて」
私はハンカチをそのまま、テーブルの隅に置いた。差し出してすぐに引っこめないことを、私は長い時間をかけて覚えてきた。「いま要らない」と言われたものを「では」と言ってすぐに引くのは、相手の「要らない」をこちらが小さくしてしまうことになる。
青木さんはハンカチを少しのあいだ、テーブルの上で見ていた。それから自分のほうから、それをそっと自分の膝の上に取った。
——
「先生」
「はい」
「変かもしれないんですけど、あの紙を読んで、ちょっとだけほっとした自分もいたんです」
「ええ」
「私が『家のなかで何かを間違えたから、夫が冷たくなったんだ』って、ずっと思っていたところがあって。でも、あの紙を読んだらそうじゃなくて、夫はもっと前から別のところで、別の形で自分の自由をもう手にしていたんだなって、わかりました」
「……」
「私が、夫の自由を奪っていたわけじゃなかったんです」
——
私は、青木さんの目をまっすぐに見た。
その目には、涙はなかった。
けれど、半年間ずっと自分のせいだと思っていた人が、ようやく自分の手のひらから「自分のせい」という錘をひとつ外せた——そういう色が、宿っていた。








