最終更新日:

夏休みに、家を出ます ③

本作のあらすじ

「夏休みに、家を出ます」——

三十代の女性が、京都まで「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

「自由になりたい」と告げて離婚届を差し出した夫。義母・義祖母との同居、二人の小学生の娘たち、そして探偵を入れて知った、夫の半年間の影。彼女は静かに、けれど着実に、別れの準備を進めている。

子どものために、母として、彼女がいま選ぼうとしている道に、たま先生はどんな言葉を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

「離婚届を渡されたのは、年明けでした」

青木さんはそう言って、コーヒーカップから手を離した。

——

その日のことを、青木さんはよく憶えていた。

正月の三が日が明けた、四日の夜だった。義祖母は早めに自分の部屋に下がり、義母も、二階で年賀状の整理をしていた。子どもたちは二階の子ども部屋で、もらったお年玉のお札を何度も並べ替えていた。

ご主人はダイニングテーブルの自分の席に、座っていた。

青木さんが台所で湯呑みを洗っていると、ご主人がこう言った。

「これ」

振り返ると、テーブルのうえに白い封筒が置かれていた。

——

「中身は、開けなくてもわかったんです」

青木さんは、そう言った。

「年末にも何度か、その話は出ていましたから。でも、本当に出てくる、出てくる、と頭で言いながら、心のほうはまだ信じていなかったんだと思います」

私は首を、ゆっくりと縦に振った。

「封筒のなかには、ちゃんとした離婚届が入っていました。夫の欄だけ、もう書いてありました。判も押してありました」

「……」

「その紙を、私はしばらく、テーブルのうえでただ見ていました」

——

青木さんがそれから、ぽつりと付け加えた言葉は、私の中で長く尾を引いた。

「夫が、こう言ったんです」

「ええ」

「『子どもとは一緒にいたいから、籍だけ抜いて、これからは子育てのパートナーとしてやっていきたい』って」

「……」

「『家にも住み続けるつもりだ。義母にももう、了解を取った』って」

——

私は、すぐには応えなかった。

ダイニングテーブルのうえに置かれた、白い封筒。判の押された夫の欄。それを「離婚届」と理解しながらも、その紙がこれから自分の暮らしのどこへ、どんな形で食い込んでくるのかは、まだ頭が追いついていない——そういう数分間が、青木さんの中には確かにあったのだろう。

「子育てのパートナー」という言葉の冷たさを、私はもうひと呼吸かけて自分のなかで噛んだ。

——

「私、その夜お風呂に入りながら考えました」

青木さんが続けた。

「『子育てのパートナーとして籍だけ抜いて、家には住み続ける』。それが本当に、自由になりたい人の言うことなのかなって」

「ええ」

「ただ自由になりたい人ならもっと、別の言い方をするはずなんです。出ていく、とか、慰謝料はちゃんと払う、とか。でも、夫の言い方はそうじゃなかった」

「……」

「『家には住み続ける』『義母にも了解を取った』。その『了解を取った』の言い方が、私には何かひっかかりました」

私は、青木さんの目を見た。

「その『ひっかかり』が、青木さんを動かしたんですね」

「はい」

「動いた、というのは」

「探偵さんを入れたんです」

——

青木さんはそれから、両手を自分の膝のうえに置いた。

その指先がほんのすこしだけ震えていた。半年前のことを話しているのに、いまそれを話している指が震える——身体は頭よりもずっと、過去を新しく憶えていることがある。

「探偵さんからの報告書が届いたのは、二月の終わりでした」

「ええ」

「義母も義祖母も、子どもたちも家にいない時間を狙って、私はリビングのテーブルでその封筒を開けました」

私は何も言わずに、その場面の中に自分の身を置いた。

——

ファスナー式の封筒が、ぴり、と音を立てて開く。

なかから、A4サイズの書類が十数枚出てくる。

最初の数行を読んだ瞬間に、青木さんの体はいっぺんに止まった。

呼吸も、止まった。

紙をめくる指は、めくりたくないと思った。けれど、めくらないと終わらないことも、わかっていた。

——「飲み会」と称された日に、繁華街のホテル街で確認されたこと。 ——某店舗のデリヘルを、複数回、利用していたこと。 ——マッチングアプリのアカウントを複数所持していたこと。 ——アプリ経由で、複数の女性と、実際に会っていたこと。

——

「私、その紙の前でしばらく動けませんでした」

青木さんはいまの口調で、そう言った。けれどその「動けませんでした」のなかには、半年前のリビングのテーブルの前で、本当に体ごと止まっていた女性の温度がまだこもっていた。

「呼吸ができないというよりは、呼吸の仕方を忘れた感じでした」

「……」

「手が紙の縁を持ったまま、震えはじめました。頭は、どこかすうっと遠くなっていました」

私は、自分のコーヒーカップに目を落とした。

その間も、青木さんの言葉は続いた。

「『見たくなかった』のではないんです、先生」

「ええ」

「『見えてしまった』というのが、いちばん近いです」

——

私は青木さんに、ハンカチを差し出した。

けれどその瞬間、青木さんは首を、ゆっくり横に振った。

「ありがとうございます。でもいま、私、不思議と泣けないんです」

「ええ」

「あの紙を読んだとき、涙の出どころがすこしだけずれた気がしました。あれから何回、その紙を読み返しても、涙は出てこなくて」

私はハンカチをそのまま、テーブルの隅に置いた。差し出してすぐに引っこめないことを、私は長い時間をかけて覚えてきた。「いま要らない」と言われたものを「では」と言ってすぐに引くのは、相手の「要らない」をこちらが小さくしてしまうことになる。

青木さんはハンカチを少しのあいだ、テーブルの上で見ていた。それから自分のほうから、それをそっと自分の膝の上に取った。

——

「先生」

「はい」

「変かもしれないんですけど、あの紙を読んで、ちょっとだけほっとした自分もいたんです」

「ええ」

「私が『家のなかで何かを間違えたから、夫が冷たくなったんだ』って、ずっと思っていたところがあって。でも、あの紙を読んだらそうじゃなくて、夫はもっと前から別のところで、別の形で自分の自由をもう手にしていたんだなって、わかりました」

「……」

「私が、夫の自由を奪っていたわけじゃなかったんです」

——

私は、青木さんの目をまっすぐに見た。

その目には、涙はなかった。

けれど、半年間ずっと自分のせいだと思っていた人が、ようやく自分の手のひらから「自分のせい」という錘をひとつ外せた——そういう色が、宿っていた。

本作「夏休みに、家を出ます」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

ほかのお悩み小説も読む


PAGE TOP