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明日、離婚届を出します ⑤

本作のあらすじ

「明日、離婚届を出します」——

横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。

義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。

二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——

→ 第1話から読む

林さんを、店の外まで見送った。

夕暮れに近い時間だった。鴨川の水面が、少しオレンジに光り始めていた。京都の四月の夕方は、空気そのものが薄く色づいていく。光が水に溶けて、水が光を返している、その繰り返しのなかに、私はいつも、しばらく立ちつくしてしまう。

「お気をつけて」

「はい。本当にありがとうございました」

林さんは、もう一度頭を下げて、川沿いの道を北に歩き始めた。その背中は、来たときよりも、少しだけ軽そうに見えた。重さが消えたのではない。重さの抱え方が変わったのだ、と私は思った。

私は、しばらく店の前に立っていた。林さんの背中が、新緑のなかに紛れて、見えなくなった。それでも私は、少しのあいだ、同じ場所から動かなかった。

——

それから、川沿いをゆっくりと歩いた。来たときと同じ道だった。けれど、行きと帰りとでは、空気の温度が違って感じられた。同じ場所でも、人と一度すれ違ったあとには、もう同じ場所ではなくなる。それは、京都の四月の風が私に教えてくれたことのひとつだった。

二十年。

林さんの数字を、もう一度、頭のなかでなぞった。二十年、誰かのために優しさを使い続けた人。

私は、自分の二十代を思い出していた。

社会のことなんて、何も分かっていなかった。とにかく目の前の仕事をこなすしか、道を知らなかった、と言ったほうが正しい。

朝も夜もなくして、出張だらけで、電車のなかで眠るのがいちばんよく寝た時間だった気もする。要領も知らない。優先順位もつけられない。ただ、与えられた仕事を、明日までにかたちにすることだけを考えて、毎日を回していた。

がむしゃら、という言葉はたぶん、ああいう時間のためにある言葉なのだろう。誰かに「もっと自分を大事にしなさい」と言われても、たぶん意味が分からなかったと思う。自分を大事にする方法を、私は、知らなかった。

体を壊して、京都に戻ってきたのは、三十代の半ばだった。あの頃の私に、もし誰かが「自分に優しくしていいんだよ」と言ってくれていたら——。

そう思って、私はすぐに首を振った。そういう「もし」を、いま考えても仕方がない。私は今、目の前に来てくれた人に向かって、その言葉を言える人間になれた。それで、十分だった。十分すぎるほどだった。

——

「をぐら」の暖簾をくぐったのは、夕方の六時を回った頃だった。

ザキ姉ちゃんが営む、小さな小料理屋である。京都の路地の奥に、ひっそりと提灯を出している、地元の人ばかりが知る店だった。

ザキ姉ちゃんは、私が二十代に勤めていた会社の、少し年上の先輩である。何年も前にあの会社を辞めて、京都の実家のこの店を継いだ。「たま先生」という名前を背負っているときの私が、ふいに肩の力を抜けるのは、たぶん、この店のなかだけだった。

「おお、たまちゃん。今日はえらい遅いやないの」

カウンターの向こうで、ザキ姉ちゃんが顔を上げた。

「ちょっと、長いお話を聞いてきたから」

「ふーん」

ザキ姉ちゃんは、それ以上は何も聞かなかった。そういう人だった。聞かないことが、いちばんの優しさになる時間がある——それを、ザキ姉ちゃんは知っている。

「いつものでええの」

「お願いします」

カウンターに腰かけた。ザキ姉ちゃんが、温かいほうじ茶を、ゆっくりと湯呑みに注いでくれた。鍋からは、出汁の匂いが薄く立ちのぼっていた。

「今日はな、根菜の煮もんやで。あんた、好きやろ」

「ありがたい」

私は、湯呑みを両手で包んだ。手のひらに、温度がじんわりと伝わってくる。日が暮れて、外の風はもう少し冷たい。それを思い出させてくれる温度だった。

「あんた、なんか、疲れた顔してるで」

「そう?」

「うん。今日は、特に」

私は、少し笑った。ザキ姉ちゃんは、私の顔を見ただけで、いろいろなことを察する人だった。

「でもな、たまちゃん」

ザキ姉ちゃんが、湯気を立てた小鉢を、私の前にそっと置いた。

「あんたの仕事は、人を救うことやないやろ」

「うん?」

「人が、自分で立つのを、隣で見ててあげることや。違うか」

私は、少しだけ目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。

「そうやね」

そう言える人が、自分にも一人いる。それがどれだけ救いになっているか、ザキ姉ちゃんは、たぶん知らないだろう。知らないままでいてくれるほうが、ありがたい気もする。

——

家に着いたのは、夜の九時を過ぎていた。

玄関を開けて、明かりをつける。狭い廊下に、自分の靴を脱ぐ音だけが、ぽとり、と落ちた。

私は、しばらく、その場で立ち止まっていた。

林さんは、今頃、新幹線のなかにいるだろうか。それとも、もう、横浜の家に着いて、明日のために、息を整えているだろうか。

——明日、彼女は、離婚届を出す。

たった一枚の紙が、二十年を畳んで、新しい二十年を開く。

その朝の、林さんの背中を思い浮かべた。たぶん、震えているだろう。たぶん、足が止まりそうになるだろう。

けれど、もう、迷うことはない。

そのことが、私には、はっきりと見えた。

廊下の明かりの下で、私は深く息を吐いた。それは、林さんが今日この午後に吐いた、二十年ぶりの息と、どこか似ていた。

林さんに、これから先の人生で、たくさんの幸せが訪れますように。

私の中で、その祈りが、はっきりと声になった。

私は、しばらくのあいだ、廊下の明かりの下に立っていた。

外では、京都の夜が、静かに更けていく気配がしていた。

本作「明日、離婚届を出します」は全5話の連載です。

※本記事は、「たまお悩み相談室」に寄せられた相談をもとに、相談者の個人が特定されないよう変更を加えながら構成しています。

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