本作のあらすじ
「明日、離婚届を出します」——
横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。
二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——
「林さん」
私は、林さんの目を見た。
その目には、涙の跡があった。けれどもう、震えてはいなかった。長い話を経て、林さんがいま、私に手渡してくれた問いだった。問いを差し出されるということは、こちらに信頼を預けてくださったということに、ほかならない。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「林さん。二十年、本当によく頑張ってこられましたね」
林さんが、また少し、唇を結んだ。
「祖母の介護も、義姉のお子さんの世話も、家計のための共働きも。それを、誰にも見てもらえなかった日々」
「はい」
「その二十年は、林さんが弱かったから続いたのではないんですよ」
私は、言葉を選びながら続けた。
「林さんが、優しかったから、続いたんです」
林さんが、少しだけ俯いた。
「優しい人ほど、自分のことを後回しにしてしまうものなんです」
私は、自分のコーヒーをひとくち飲んだ。すっかり冷めていた。冷めたコーヒーの味というものを、私は嫌いではなかった。いま目の前で起きていることに集中しているうちに、いつのまにか冷めてしまう——それは、いい時間を過ごしている証のような気がしていた。
——
「五十歳から、人生をやり直してもいいですか」
林さんの問いを、私は口の中で、もう一度繰り返した。
——遅くありません、と即答することはできた。けれどそれでは、林さんが探している答えにはならない、と私は思った。答えに必要なのは、軽快な肯定ではなく、もう少し深いところで響く言葉だった。
「林さん」
私は、もう一度、彼女の名前を呼んだ。
「人生をやり直す、という言葉のなかには、二つの意味がありますね」
「二つ?」
「一つは、これまでの自分を捨てて、まったく別の人になること」
「もう一つは」
「これまでの自分の続きとして、ここから別の選び方をすること」
林さんは、私の言葉をじっと聞いていた。沈黙のなかに、考えが動いていく音が聞こえる気がした。
「林さんが、明日、離婚届を出される。そのあと始まるのは、別の自分の人生ではないんですよ」
私は、林さんの目をまっすぐに見た。
「これまで二十年、誰かのために優しさを使い続けてきた林さんが、これからは、自分にもその優しさを向けて生きていく。その続きなんです」
林さんの目に、また薄い膜が張った。けれどそれは、悲しみの涙ではなかった。
——
「先生」
林さんが、小さな声で言った。
「私、自分に優しくする方法、もう、忘れてしまったかもしれません」
「忘れていませんよ」
私は、即答した。
「忘れた人は、ここまで京都に来ません。誰かに会いに来ようとも、思いません」
林さんが、目を見開いた。
「林さんは、自分に優しくする方法を、ちゃんと知っているから、ここに来てくださったんです」
しばらくの沈黙があった。林さんは、ハンカチで、もう一度、目元を押さえた。そして、深く、息を吐いた。
それは、二十年ぶりの息のように、長く、ゆるやかだった。
「先生」
林さんが、顔を上げた。
「ありがとうございます」
その声は、もう、揺れてはいなかった。
「明日、出してきます」
林さんが、はっきりと言った。その言葉に、迷いの欠片もなかった。
私はその姿を見つめながら——自分の中にも、何か、ほどけていくものを感じていた。長らく胸の奥にとどまっていた何かが、林さんの「明日、出してきます」という一言に呼応して、静かに緩み始めていた。








