本作のあらすじ
「明日、離婚届を出します」——
横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。
二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——
私は、すぐには答えなかった。
その問いの答えは、私が出すべきものではないのだと、私は知っていた。林さん自身が、いま、その答えを探している途中だった。答えを先回りして言葉にしてしまえば、それは林さんの答えにはならなくなる。
私は、自分が職業として身につけてきた最も大切なことのひとつを、こういう瞬間にこそ思い出す。それは、ただ隣に居る、ということだった。隣に居て、相手の探し物の傍らで、静かに呼吸を揃える。それが、私のできる、いちばん意義のあることなのだと、十年以上、相談を受けてきたなかで、私は繰り返し教わってきた。
——
「うちは、息子が一人いるんです」
しばらくして、林さんが、また話し始めた。
「Zoomでも、お話しさせてもらいましたね」
「はい」
「あの子が、小さい頃から、ずっと見ていたんだと思います。私が、何も言わずに動いていることを」
林さんは、コーヒーカップに手を添えたまま、視線を窓の外に向けた。新緑の影が、彼女の頬の輪郭で、揺れていた。
「去年、社会人になったんです、息子が」
「もう、独立されたんですね」
「はい。一人暮らしを始めて、すぐの頃。突然、家に来たんです」
「ご主人のお家に」
「そうです。たぶん、何かを言いに来たんだと思います。あの子なりに、考えて」
林さんが、少しだけ目尻を下げた。それは、この日初めての、母親の顔だった。母というものの輪郭は、子どものことを思い出すとき、ふっと別人のように立ち現れる。私は、その変化を見るのが、いつも好きだった。
——
「夕食を、一緒に食べました」
林さんは、その日のことを話し始めた。
「久しぶりだったので、私も少し、はしゃいでいたかもしれません。夫は、いつものようにテレビを観ていました。息子と私の会話には、ほとんど入ってきませんでした」
それが、ご主人という方だった。私は、それを言葉にしないでおいた。言葉にしなくてもよいことを言葉にしないというのも、また、こちらの仕事のうちである。
「食事のあと、息子が、こう言ったんです」
林さんが、コーヒーカップから手を離した。テーブルの上に、両手を、ゆっくりと置いた。手のひらが、テーブルクロスの感触を確かめるように、平らになった。
それから、息子の言葉を、自分の口でなぞった。
「母さん。もう、我慢しなくていいんだよ」
声に出したあと、林さんはしばらく目を閉じた。閉じた瞼の奥で、その短い言葉が、もう一度こだましているのが、見えるようだった。
「もう一度、言ってもいいですか」
「もちろんです」
「母さん。もう、我慢しなくていいんだよ」
——その瞬間、林さんの目から、ふっと、涙がこぼれた。
ずっと張られていた薄い膜が、その短い言葉に、とうとう破られた——という落ち方だった。涙は、頬を伝うのではなく、まず、瞼から顎に向かって、まっすぐに落ちた。それから、二粒目、三粒目と、追いかけるように続いた。
私は、ハンカチを取り出して、林さんの前にそっと置いた。
「ありがとうございます」
林さんはハンカチを手に取った。けれど、しばらくのあいだ、目元には当てずに、ただ膝の上で、ぎゅっと握っていた。涙を拭うことより先に、まず、この涙を流していい、ということを、自分に許す時間が要るのだ、と私は思った。
肩が、小さく震えていた。
それは、二十年分の、声にしてはいけなかった涙だった。
声にすれば、嫁失格と言われる。声にすれば、ご主人を悪く言ったことになる。声にすれば、家のことが外に漏れる。声にすれば、と数えるうちに、林さんは自分の涙の出し方さえ、いつしか忘れていったのだろう。
忘れていた涙が、今、息子の声に呼ばれて、二十年ぶりに、戻ってきている。
私は、自分のコーヒーカップから手を離さなかった。代わりに、林さんが流すひとつぶ、ひとつぶの涙を、心のなかで、静かに受け止めていた。
それが、私がいま、この場所でできる、いちばん大切なことだった。
——
しばらくして、林さんは顔を上げた。
「先生」
「はい」
「私、これまでずっと、思ってきたんです」
「ええ」
「私が至らないからだ、私が我慢が足りないからだ、って」
「……」
「でも、息子が、そうじゃないって言ってくれた」
林さんの目に、もう一度、新しい涙が浮かんだ。けれど、今度の涙は、さきほどとは違う形をしていた。何かを赦された人の涙だった。
「先生、私、明日、離婚届を出します」
林さんは、もう一度、その言葉を口にした。最初に喫茶店で言ったときよりも、ずっと、まっすぐな声だった。
「でも、先生」
林さんは、私の目をまっすぐに見た。
「これから、生きていけるでしょうか。私……五十歳から、人生をやり直してもいいんでしょうか」








