本作のあらすじ
「明日、離婚届を出します」——
横浜からはるばる京都まで、ひとりの五十歳の女性が「たまお悩み相談室」のたま先生に会いに来た。
義実家との同居、二十年。祖母の介護、義姉の子の世話、夫の無関心。長く重ねてきた我慢の果てに、ようやくたどり着いた決断。出す前に、もう一度だけ誰かに聴いてほしかった——その想いを胸に、彼女は鴨川沿いの古い喫茶店の窓辺に座る。
二十年の話を聴き終えたとき、たま先生は彼女に、何を返すのだろうか——
「明日、離婚届を出します」
スマホに届いたその一行を、私は何度も読み返した。同じ文字が、繰り返すたびに違う重さを持って眼に映った。窓の外では、四月の終わりの夜が、京都の街に薄く張りついていた。
差出人は、横浜に住む林さんという女性だった。これまでに何度か、Zoom越しにお話を聞いてきた方である。文面の末尾には、こう続いていた。
「出す前に、一度だけ、先生にお会いしたいんです」
私は、湯の冷めた湯呑みを傍らに置いたまま、しばらくその文字の前から動けずにいた。動けなかったというよりは、その短い数行の中に閉じ込められた長い夜の気配を、自分の体にいったん受けとめておく必要があったのだ。十分後、二十分後、ようやく指がうごいた。
「お待ちしています」
文字を送ったあとも、心のどこかで何かが揺れていた。その揺れの中身を、私は急いで言葉にしようとはしなかった。揺れているということは、つまり、何かが動こうとしているということだから。
——
四月の終わりに、京都で会う約束をした。
桜のことを誰も話さなくなって、すこし寂しい時季である。鴨川沿いの欅は若葉を解き、川面に映る色を、日々ゆっくりと深くしていた。私は、長い話をする方には、川辺の古い喫茶店をすすめることが多い。流れる水のすぐそばでは、人の心は、不思議とほどけやすい。窓越しに水を見ながら話を聞くということを、私は、長い時間をかけて、身体で覚えてきた。
待ち合わせの時間より少しだけ早く着いて、川沿いの道をゆっくり歩いた。風には、もう冬の鋭さは残っていない。けれど初夏のあの厚みも、まだない。コートはもう要らないが、薄手のジャケットでちょうどいい——そんな日が、京都にはほんの数日だけある。その数日のうちの一日を、私は林さんと過ごそうとしていた。
店のドアを押すと、コーヒーの香りが、ふいに迎えてくれた。カウンターの奥で、店主の老婦人が小さく頷く。窓辺の席に座って、川面を見つめた。新緑の影が、テーブルクロスの上で、細かく揺れていた。
——
少し遅れて、女性が入ってきた。
紺のジャケットに、白いブラウス。髪は肩までで、化粧は控えめだった。「きちんとした人」という第一印象は、しかし数秒のうちに、別の言葉に置き換わった。「自分を整えることでなんとか持ちこたえてきた人」——そのほうが、林さんの輪郭をより正確に写しとっている気がした。
「林と申します。今日は、本当にありがとうございます」
向かい合って座ると、林さんはまっすぐに私の目を見て、深く頭を下げた。バッグを足元にそっと置く動作にも、長いあいだ「迷惑をかけまい」としてきた人の、独特の慎重さが宿っていた。
その左手の薬指に、指輪はなかった。けれど指の付け根のところに、ぐるりと細く、肌の色の違いが残っていた。長く嵌めていた指輪を、つい最近外したのだ。それ以上の言葉は要らなかった。
コーヒーが運ばれてくる。砂糖もミルクも入れずに、林さんはひとくち、静かに口をつけた。カップを置いた手の指先が、ほんの少しだけ震えていた。
私は、自分のコーヒーを両手で包んだ。湯気はまだ立ちのぼっていたが、その熱さよりも、テーブルの向こうから伝わってくる林さんの体温のほうが、私には先に届いた。彼女は、まだ何も話していない。けれど身体じゅうから、すでに、二十年分の言葉が立ちのぼり始めていた。
——
二十年。
以前のセッションで、林さんが教えてくれた数字を、私はゆっくりと胸の中で繰り返した。義実家との同居が、二十年。
私自身も、二十代の頃には、自分の時間というものをほとんど持たない暮らしをしていた。早朝に家を出て、最終の電車で帰る日々が、何年も続いた。けれどそれはたかだか数年のことであって、林さんの二十年とは、桁が違う。私には、想像することしかできない時間だった。
「先生」
しばらくの沈黙のあと、林さんが顔を上げた。
「ここまで来てくださって、本当にありがとうございます」
「いいえ」
私は、ゆっくりと首を振った。
「林さんこそ、よく、来てくださいましたね」
林さんが、唇をきゅっと結んだ。
その目に、ゆっくりと、薄い膜が張っていく。けれどそれは、まだこぼれ落ちる涙にはならなかった。長い時間をかけて少しずつ満ちて、もうあとわずかでこぼれ落ちる、そういう種類の膜だった。
四月の風が、川の方から窓を抜けていった。
林さんはコーヒーカップに手を戻すと、しばらくのあいだ、ただ湯気を見つめていた。私も何も言わずに、その視線の先を、一緒に見つめた。湯気は静かに上がって、空気のなかに溶けていった。
「先生」
ふいに、林さんが顔を上げた。
その声には、さきほどまでの落ち着きが、もう、なかった。
「私……本当に、これでよかったんでしょうか」








