変わっていく両親、変われない私
「ただいま……」
薄暗い玄関で靴を脱ぐと、リビングから漏れるテレビの音が耳にまとわりついてきた。ため息を一つこぼし、重い足取りでドアを開ける。
そこには、ソファに横たわり、口を半開きにして眠る父の姿があった。昼から夕方まで、まるで置物のようにテレビの前を動かない。そしてダイニングテーブルの椅子では、母がズボンの裾をまくり上げ、痛々しい青アザに湿布を貼っている。
「……お母さん、また転んだの?」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、刺々しかった。
「ああ、ちょっとスーパーの前の段差でね。大したことないのよ」 申し訳なさそうに笑う母の顔は、昔よりもずっとシワが増え、小さく見えた。
「気をつけてっていつも言ってるじゃない! なにかあったらどうするのよ!」
強い口調で言い放ち、私は逃げるように自分の部屋へ向かった。背中に刺さる母の沈黙が痛い。
本当は、怪我をしていないか心配でたまらないのだ。
かつて私を力強く守ってくれた両親が、どんどん弱っていく姿を見るのがたまらなく切ない。
老いていく現実を受け入れられず、その辛さを両親への怒りとしてぶつけてしまう。 そんな自分が、心の底から嫌だった。
誰も悪くないのに、息が詰まる部屋
ベッドに倒れ込み、スマホの画面を無意味にスクロールする。検索履歴には「高齢者 同居 限界」「親 別居」といった文字が並んでいた。
いっそ家を出て、一人暮らしをしようか。その方がお互いのためかもしれない。何度もそう考えた。
でも、もし私がいない間に母が大きな怪我をしたら? 父が倒れたら? そう思うと、恐怖で足がすくんで踏み切れないのだ。
親には優しくしなければならない。一緒に暮らしているのだから、私が支えなければならない。世間の「いい娘」のハードルが、真綿のように私の首を絞める。
「どうして私ばかり、こんなに苦しい思いをしなきゃいけないの……」
薄暗い部屋の空気が、私の孤独と自己嫌悪でどろどろに濁っていくのを感じた。涙が一滴、スマホの画面に落ちて弾けた。
ふてぶてしい訪問者と、非常識な提案
ジメジメしてて、寝心地が悪い部屋だニャ
突然、野太い声が響いた。驚いて顔を上げると、いつの間にか開いていた窓のサッシに、一匹の猫が座っていた。ふてぶてしい顔つきで、お腹の肉がたっぷりと垂れ下がった、少し太めの三毛猫だ。
「えっ……猫? どこから入って……」
「我輩はフクだニャ。お前、眉間にシワ寄りすぎだぞ。そんな顔してたら、カリカリも不味くなるニャ」
幻覚でも見ているのだろうか。しかし、フクと名乗ったその猫は、ドスンという重い音を立ててベッドに飛び乗ると、私の足元で堂々と丸くなった。
「親がヨボヨボになって悲しいからって、当人に八つ当たりして自己嫌悪? 人間ってのは本当に面倒くさい生き物だニャ」
フクは前足を舐めながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「だって……辛いじゃない。どんどんできなくなっていく姿を見るのは」
「それが自然の摂理ってやつだニャ。できないことを数えてメソメソする暇があったら、今できることで楽しめばいいだけだニャ。」
「楽しむ……?」
フクは私を金色の瞳で見据え、ニヤリと笑ったように見えた。
「ババアが転ぶのが心配なら、『荷物持ちしてやるから、奢れニャ』って一緒について行けばいいだろ。ジジイが寝てばかりなら、『風邪ひくなニャ』って最高に手触りのいい毛布でもくれてやれ。親のためじゃない、お前自身が気分良く過ごすためにやるんだニャ。 自己犠牲なんて、猫の辞書にはない言葉だニャ」
新しい休日の過ごし方
翌朝、目が覚めるとフクの姿はどこにもなかった。窓はしっかりと閉まっている。夢だったのだろうか。
しかし、フクの「自分自身が気分良く過ごすため」という言葉が、不思議と胸の中で温かく光っていた。私は大きく深呼吸をして、リビングのドアを開けた。
「お母さん」 朝食の準備をしている母に、私は努めて明るい声で話しかけた。
「今日、スーパー一緒に行こうか。特売日だし、私が車出すから、重いお米とかまとめ買いしちゃおうよ。その代わり、帰りにお茶ごちそうしてね」
母は驚いたように目をパチクリとさせた後、顔をほころばせた。
「……ええ、助かるわ。美味しいケーキでも食べましょうか」
そして私はスマホを取り出し、父のために、ネットで見つけた肌触りの良いオーガニックコットンのタオルケットをカートに入れた。
両親が老いていく現実は変わらない。不安が完全に消えたわけでもない。
でも、悲しみに縛られて冷たく当たるくらいなら、少しワガママに、私が笑って過ごせる方法を選んでもいいのだ。
「ありがとう、フク」
小さな声で呟くと、どこからか「気楽に生きろニャ」という声が聞こえた気がした。私は、少しだけ軽くなった足取りで、キッチンに立つ母の隣へ並んだ。
登場人物紹介:フク
おう、俺の名前は「フク」だニャ。
たまお悩み相談室のWEB小説に、気まぐれでふらりと現れる猫だニャ。
ちょっと太めでふてぶてしい顔? うるさいニャ、これが俺のベスト・フォルムなんだから放っておけニャ。
俺の生き方は究極の「自分ファースト」だニャ。
美味しいおやつをもらった時しか喉は鳴らさないし、愛想笑いなんて絶対にしない。人間の社会にある「こうあるべき」とか「いい妻・いいお母さんでいなきゃ」なんていう謎のルール、俺たち猫には一切関係ないニャ。
なんで俺がアンタの前に現れるかって?
他人の顔色ばっかり伺って、自分を押し殺してボロボロになってる人間を見ると、なんだか見ててイライラするからだニャ。「自己犠牲」なんていう重たいもん背負ってるアンタに、俺が身も蓋もないツッコミを入れてやるニャ。
人間ってほんと、面倒くさい生き物だニャ。
嫌な時は噛む、寝たい時は寝る。それで嫌われるなら上等だニャ。アンタも俺みたいに、ガチガチに固まった肩の力を抜いて、もうちょっとワガママに生きてみろニャ🐾








