本作のあらすじ
「私、娘の友達付き合いで、自分が傷ついてしまうんです」——
関東の街から京都までやってきた、四十代の母親。三年生にあがる娘の交友関係を見守るうちに、いつのまにか自分のほうが深く傷つき、夜ごとに眠れない日が増えていた。
新緑がいちばん濃くなる五月下旬の御苑のベンチで、彼女はその「自分の傷」を、はじめて誰かの前に置こうとしている。
娘の隣で、傷ついているのは誰なのか——その問いの先で、たま先生は、何を返すのだろうか。
私は、ベンチのうえで、すこしだけ座り直した。
ポットを膝のうえにもう一度のせて、底のほうに残っていたほうじ茶を、川原さんの湯呑みに注ぎ足した。それから自分の湯呑みにも、すこしだけ。
湯気が二人のあいだで一度たち上がって、楠の葉のあいだを抜けていく光のなかへゆっくりと溶けていった。
「川原さん」
「はい」
「お茶、もう一杯、つきあってくださいね」
——
川原さんは湯呑みを両手で受けて、しばらくその温度だけを手のひらで確かめていた。
私は、自分の湯呑みを、ベンチのうえに置いた。膝のうえのポットの位置を、少し直した。それから川原さんの座っている側のほうへ、ベンチの板を一枚ぶんだけゆっくり身体を近づけた。
楠の高いところの葉が、また、風で揺れた。
私は、なにも言わなかった。
代わりに、ポットの蓋を、ふっと開けた。湯気が、すこし残っていた。蓋の内側に水滴がついていた。その丸い粒がひとつ、湯気の流れにのって外の空気のなかへ零れて、消えた。
——
川原さんは、そのポットの口元を、しばらく見ていた。
それから、自分の湯呑みのほうへ、目を戻した。
「先生」
「はい」
「答えを、いただきにきたつもりだったんです」
「ええ」
「『どう声をかけたらいいですか』とか『どう接したらいいですか』とか『どう自分を守ったらいいですか』とか、そういう答えを」
「ええ」
「でも、ここに座って先生のお茶を二杯いただいて自分の話をしているうちに、いまふっと思いました」
——
川原さんがそこで言葉を切って、ベンチのうえの楠の葉を、指先でそっと拾い上げた。
葉は、川原さんの指のうえに、軽く乗っていた。葉の縁には、すこしだけ赤い色が残っていた。緑のいちばん濃い季節に落ちる楠の若葉は、ふしぎなことに、縁のところがほんのわずかだけ赤い。
「答え、というよりは」
川原さんは、葉を見ながら続けた。
「私、いま自分のなかにある『心配』のかたちをどこに置けばいいのか、それを聞きにきたのかもしれません」
——
私は、ゆっくりと頷いた。
それからベンチのうえの自分の湯呑みを、川原さんの湯呑みのとなりにそっと置き直した。二つの湯呑みの底が、板のうえで小さく擦れる音がした。陶のあいだの「コトン」というよりは、もっと低くて、控えめな音だった。
私は、何も言わなかった。
代わりに川原さんの指先のうえの楠の葉を、ふたりでしばらく見ていた。
——
しばらくして、川原さんが、自分のほうから口を開いた。
「先生」
「はい」
「ひとつだけ、聞かせていただいても、いいですか」
「もちろんです」
「私の心配って、どこから出てきていると思われますか」
——
その問いを、私はゆっくりと自分のなかで、もういちど受けとめた。
川原さんは、賢い方である。「答え」を求めにきたのではないことを、ご自分でもう、見抜いていらっしゃる。けれどそのうえで、ひとつだけご自分のなかでまだ名前のついていないところを、こちらに尋ねてくださっている。
私はベンチのうえで、もう一度、座り直した。
それから、ポットの口を、川原さんの湯呑みにもう一度向けた。
ほうじ茶は、ほんのひと口ぶんだけ、注がれた。湯気のかたちは、さっきよりも、ずいぶんやわらかくなっていた。お茶が冷めていくとは、こういうことだった。
——
「川原さん」
「はい」
「ご質問にお答えする代わりに、私からひとつ、お返しの形でお聞きしてもいいですか」
川原さんは、姿勢をすこし正して、こちらのほうへ顔を向けた。
「もちろんです」
「川原さんがいま娘さんのお友達付き合いをご覧になっていて、いちばんしんどいなとお感じになる瞬間は、お子さんが『誰かに何かを言われた』瞬間でしょうか。それとも『誰かに何かを言われたあと、ご自分でどう受けとめておられるか』が分からない瞬間でしょうか」
——
川原さんは、しばらく、答えなかった。
楠のうえを、もう一度、雲が流れていく。
御苑のベンチのまえをご年配のご夫婦が、孫らしいお子さんと三人でゆっくり通りすぎていった。お孫さんの背丈は、ご夫婦の腰のあたりまでで、お祖父さまの手をしっかり握っている。御苑の砂利のうえでは、お孫さんの靴音だけがぱり、ぱりと軽く響いた。
その靴音がこちらの足元から少しずつ離れていったあとで、川原さんはぽつりと言った。
「あとのほうかも、しれません」
「ええ」
「あの子が何か言われた瞬間は、私のところまでは見えないんです。家に帰ってきてからのあの子の表情やご飯のときの口数を見ていて、『今日、何かあったのかな』って私が想像で組み立てているだけで」
「ええ」
「そのあと、私のほうがぐるぐる考えてしまって。あの子に直接『今日どうだった』って聞きたいのに、聞いたら聞いたであの子がもう自分のなかで仕舞っているものをこっちが引きずり出してしまうんじゃないかと思って、聞けなくて」
「ええ」
「で、結局聞かないまま私のほうだけが勝手にいろんな答えを想像して、傷ついている」
——
私は、ゆっくり頷いた。
それから自分の湯呑みをベンチのうえに置いたまま、川原さんのほうへ少しだけ顔を向けた。
「川原さん。よく、見ていらっしゃるんですよ。娘さんのことを」
「ええ」
「お子さんがいまこの瞬間、自分のなかで何をどう仕舞われているか——それはお母さまがいくら見ていても、最後の最後のところはお子さんの内側にしかありません」
「ええ」
「それは、隠されているのではないんです。お子さんがご自分で、ご自分のなかにそれを置いていらっしゃる、ということなんですよ」
——
川原さんが、ベンチのうえで、ふっと姿勢をゆるめた。
肩のあたりに入っていた力が、ひとつ、抜けた。
「先生」
「はい」
「『隠されているのではない』というのは」
「お子さまはお母さまから何かを隠そうとしていらっしゃるのではなくて、ご自分のなかでご自分の手でその出来事をいま整理していらっしゃるということなんです」
「ええ」
「それは、お子さまの大事な、大事な時間です」
「ええ」
「その時間を、お母さまがそとから手を伸ばして整理することはできません。お母さまにできるのは、お子さまがそれを整理し終えるまで、すこし離れたところでお湯を沸かしておかれることなんですよ」
——
川原さんが、ゆっくりとこちらを見た。
「お湯を、沸かしておく」
「はい」
「いつでも、お子さまが『おかあさん』って呼んだときに、温かいお茶を出してさしあげられるように。お湯だけ、ふっと、沸かしたままにしておく」
——
私はそう言いながら自分の手のひらで、ポットの底をひとつ軽く撫でた。
ポットの中身はもう、半分以下しか残っていない。けれどまだ、温かさは残っていた。
「川原さんが今日、ここに私のためにお茶を持ってきてくださったわけではないですよね」
「いえ、これは、先生が」
「ええ。私が川原さんのために家を出るまえにいちど沸かして、もう一度沸かし直してポットに注いできました」
「はい」
「そういうことなんです」
——
川原さんが、ふっと、目をそらした。
そらしたのは、こちらから視線をはずしたいというよりは、自分の中でいま受けとめたばかりのものをまだ眼の奥にしまっておきたいという顔だった。
そらした視線の先には、楠の高いところの葉がたくさん重なっていた。
そのうしろを、雲がもう一枚、ゆっくりと流れていった。
私は何も言わずに、自分の湯呑みを口元に運んだ。ほうじ茶はベンチのうえに置いている時間が長すぎて、もう湯気を立てなくなっていた。それでもひとくち含むと、底のほうにまだほんの少しの温かさが残っていた。








