本作のあらすじ
「私、娘の友達付き合いで、自分が傷ついてしまうんです」——
関東の街から京都までやってきた、四十代の母親。三年生にあがる娘の交友関係を見守るうちに、いつのまにか自分のほうが深く傷つき、夜ごとに眠れない日が増えていた。
新緑がいちばん濃くなる五月下旬の御苑のベンチで、彼女はその「自分の傷」を、はじめて誰かの前に置こうとしている。
娘の隣で、傷ついているのは誰なのか——その問いの先で、たま先生は、何を返すのだろうか。
「川原さん」
私は、湯呑みに口をつけたあとの、川原さんの呼吸の長さを見ていた。
「お話の出口は、急がなくて、いいんです」
川原さんが小さく頷いた。
ベンチの上で、湯呑みの底をゆっくり手のひらに乗せ替える。湯呑みのなかで、ほうじ茶のおもてにうすい影がひとつ揺れた。それが御苑の楠の影なのか自分の手のひらの影なのかは、たぶん川原さんにも私にも、見分けがつかなかった。
——
「娘は」
しばらくして、川原さんが言った。
「もうすぐ、三年生になります」
「ええ」
「いま二年生の終わりです。日本の学校なので、四月にはもう、新しいクラス分けの紙が出ます」
「クラス替えがある学年ですね」
「はい。三年生になるとクラスが替わるんです、うちの学校は」
そう言ってから、川原さんは膝のうえで指の位置を、ほんの少しだけ直した。
「あの子、小さい頃からお友達を作るのが、ちょっと苦手で」
——
砂利のうえに、自転車のタイヤの跡が残っている。雨が降った翌朝にだけ、御苑のなかにはこういう跡が残る。きのうの夕方、にわか雨があったのを私は思い出した。あの雨を子どもたちが知っていたら、夕暮れの校庭がずいぶん騒がしかっただろう。
川原さんがゆっくりと続けた。
「教室で話せる子は、何人かいるんです。隣の席の子と、給食の係が一緒だった子と、たぶんそういう子たち。でも、その子たちのあいだにいわゆる『親友』みたいな関係を作れる子は、まだいないんです」
「ええ」
「あの子、考えすぎる性格で。一回声をかけられた子のことも、その子の機嫌が悪かった日のこともぜんぶ憶えていて。そのうえでまた声をかけるかどうか、自分のなかでぐるぐる考えているみたいなんです」
「ご自分のお気持ちを、よく観ているお子さんですね」
川原さんは、すこしだけ目を細めて笑った。
「ええ。そうかもしれません。それはたぶん、私に似たんですね」
——
「先生」
「はい」
「三年生って、女の子の場合はよく『グループ化』するっていう話を聞くんです」
「ええ。聞きますね」
「お母さん同士の集まりでも、その話をする方がいて」
「あの、ふだんから、そういうお話の輪のなかにいらっしゃるんですか」
「いえ、私はそんなにいないんです。でも、習い事の送り迎えで一緒になる方々はたまに、そういう話をされていて」
川原さんがほうじ茶を、ひとくち飲んだ。
「『三年生からはぐっとグループになるから、最初の一週間で誰と行動するかが決まる』って、おっしゃっていて」
「そう、聞かれた」
「はい。そのあと家に帰ってから、子ども部屋を見ていたんです」
——
その夜のことを、川原さんはゆっくりとなぞった。
夕方、習い事の送り迎えから戻って、洗濯ものを取り込んでから二階にあがった。子ども部屋のドアは、半分だけ開いていた。机のうえで、娘さんが宿題をしていた。
「鉛筆の音がしーんと部屋のなかに、ひとつだけ落ちていました」
——その「しーん」のなかに、川原さんはひとつ、別の音を聞いてしまった。
「ああ、この子は、一年生の頃からこの『しーん』のなかにずっと座ってきたんだなって」
「ええ」
「クラスから帰ってきても家のなかでも、誰かと『話す』っていう時間がそんなに、ない子なんです。私と話します。それは、します。でもそれ以外でお友達と電話をしたりメッセージのやりとりをしたり、っていうことが、まだないんです」
——
私は何も挟まずに、頷いた。
「そのときに、私、思いました」
川原さんが、湯呑みの底を見たまま続けた。
「もしこの子が、四月のクラス替えのあと、一週間目で『どこにも入れなかった』ら——」
「ええ」
「ポツン、ってなるんじゃないかって」
その「ポツン」が川原さんの口から出るとき、ほんの少しだけ語尾が下がった。「ポツン」は本来、子どもの口から出る言葉である。けれどいまそれは、母親の側のいちばん奥のところからまっすぐに出てきた。
——
「先生」
川原さんが、はじめて、こちらの目を見た。
「そう思った瞬間に、私のほうが、すうっと冷たくなったんです」
「冷たく、というのは」
「胸の真ん中のところが、ふっと、温度を失う感じです」
「ええ」
「それから、しばらく、息ができなくなりました。子ども部屋のドアの前で、立ったまま」
「お子さんは、お母さまがそこに立っておられたこと、ご存じなかったんですね」
「はい。あの子はずっと机のほうを向いていました。鉛筆の音だけがずっと、しーん、しーんって」
——
風が、楠のうえを、また一筋抜けていった。
砂利のうえに落ちた光のあかるい部分が、ふっと位置を変えて、川原さんの足元のすぐ近くまで動いた。けれど川原さんは、その光に気づいていなかった。
「私、その夜から、夜中によく目が覚めるようになりました」
「いつ頃から、ですか」
「二月のはじめくらいです。クラス替えの紙が出る、ふた月くらい前から」
「ええ」
「目が覚めると、頭のなかで四月の教室の景色を勝手に思い描いてしまうんです。新しい先生がいて、新しい席順があって、たくさんの子たちのなかにぽつんと座っているうちの娘がいて」
——
川原さんが、そこで言葉を切った。
その「ぽつん」の景色を、私はもう、私の側でも見ているような気がした。あかるい教室のなかに、ひとり、口を結んでいる子の輪郭が浮かぶ。教室は実在しないし、私はそのお嬢さんの顔も知らない。それでもそういう景色は、母親から預かるとふっとこちらの瞼のうらでもかたちになってしまう。母親の心配というものには、そういう力がある。
「先生」
「はい」
「私、何にいま、傷ついているんでしょうか」
——
その問いに、私はすぐには答えなかった。
答えてしまえば、川原さんが今日この御苑まで運んでこられたものを、外から私の手で先回りして仕分けることになってしまう。仕分けるのは、川原さんご自身がいまここでいちばんちゃんとなさっていることだった。
私は、ポットから二人ぶんの湯呑みに、ほうじ茶を注ぎ足した。
湯気が、また細く立った。
「川原さん」
「はい」
「もう少し、聞かせてくださいね」
川原さんがゆっくりと頷いた。
楠のうえの雲のあいだから、いつもより少し強い光がひとつ、こちらに落ちてきていた。








